感動したこと

昨日、すごく憧れていた人と飲む機会があった。

 

良くしてくれている先輩が、その人とたまたま友人だったということもあり、偶然にもその場を設けていただくことができた。

 

自分の感動を分解すること。

 

感動を言語化すること。

 

感動が視覚に表現された時に、価値を失うこと。

 

・・・など挙げだしたらキリがないほど、ハッとすることが多かった。

 

感動して何かに涙を流せることが強みであり、それを分解し、構造的に理解しようとする。

今まで自分の中にそんな感覚はなかった。

 

むしろ、初めて聞いたOasisの衝撃を、言語化することはナンセンスだと、自分の中でなんとなく思っていただ部分があったが、今回のお話を聞いて、もっと自分も考えて見ても良いのかもしれないと思った。

 

最近感動したことって何?と、不意に聞かれると、んーと考え込んでしまう人は結構多い気がする。

自分もそうだった。

 

しかし、考えてみれば、意外と感動することや、したことは身近にあって、その衝撃が大人になるにつれて消えていっているだけなのだと思う。

 

例えば、自分の作った服を、海の向こう側の人たちが素晴らしいと評価してくれたり、パリの街で朝からバゲットを買ってカフェでカフェラテを飲んで一服しながら、人生について語っていたり、結果はどうあれヨーロッパで働いている自分がいたりと、思い返してみれば感動したことって結構ある。

 

だけど、人は慣れるものであり、さらに強い刺激を求めるものだから、きっとそういうことに対しての衝撃がどんどん薄れてしまっているのだろう。

それは悪いことではなく、更に貪欲に上を目指すことができる糧にもなるのも確かではあるが、少し自分の心が凝り固まっている気がした。

 

心もストレッチをしないといけないんだなと再確認した。

 

大人になるにつれて、感じることに蓋をするということができるようになる反面、一度はめた蓋は段々と硬化して、外れるのが難しくなってくる。

 

絵を見て、音楽を聞いて、ご飯を食べて、誰かに触れて、匂いを嗅いで、どんなことをしても感じる何かがあって、それがポジティブでもネガティブでも爆発的に心を揺りうごかすような瞬間があるってことを思い出さなきゃいけない。

 

本当に昨日の話は感動した。

 

心が揺さぶられた。

 

アーティストという表現で片付けるのもナンセンスな、本当に素敵な人だった。

 

ものを作ることにおいて、売れるものとかって考えるのではなくて、誰かの心をゆさぶれるものを作るということが本質であり、その対価の形として後からお金が入ってくる。

 

本当に必要なのは、お金ではなくて自分の感動とそれに共鳴するものである。

 

これからはもっと自分の感じたことを言葉にする努力をしてみよう。

 

そしてそれを伝えてみよう。